昭和56年8月27日 朝の御理解  入力者松本正宏


 御理解第六十一節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 神様へのお礼の第一番は何というてもお導きだと言う風に昔から言われておりますが、そのお導きとういうても、真の信心をさせるのが、神へのお礼だとこう仰せられる。真の信心をさせるのが、神になるのぞとこう。例えば教会には一人や二人ぐらいそんな方があります。非常にお導きの名人というのが。沢山の人がやっぱお導きをなさる。かというてならそれが本当にいうて、それが神になるという、それが神になるのぞとこう言われる。たいへんまあ疑問に思う事でございまし、まあ、よくよく分からせてもらうと、なるほどここで言われる真の信心をさせるのが、であるからこれは、めいめい自身も真の信心にならなければならない。ね。そして自分はおかげを受けておる事を人に話して行く。いうならここでは、金光大神が教えた事を違わぬようにと、こう言っておられます。ように、話していく、そして、真の信心をさせるのが神へのお礼。そういう私はお導きでなからなければ一番喜んで下さると言うことにはならないと思うのです。真の信心をさせるのが神へのお礼ぞと。だからそれが、神になるのぞと言われるほどしのお導きであり、人に話しをしていくというのであり、真の信心とはそういう事だという風に頂きますとね、これは疑問を解消いたします。自分が真の信心を頂いて、そして人にも真の信心をさせると。
 もう神様が喜んで下さる事はこれだろうとこう思う。ね。勿論真の信心には、真のおかげを頂く人間がそこに、出来ていくという事です。それが何というても一番の神様のお礼であると同時にそれが神へなるのだと、と言うふうにこう、厳密に分からせてもらうとね、これは、なるほどそうだと分かります。ただ、簡単にお導きをするという事だけがなら、神になるまたの言葉に一人助ければ一人の神と仰せられるのですからね、ですからその一人を助けるという事の助けるという内容がね、真の信心をさせると言うことなんです。そこでどうでも私共が、真の信心を目指さなければならない。
 ね。生神への精進というのはそういう事ではなかろうか。まずは自分自身が真の信心によって、助かる。自分自身が真の信心によって助かると言うことはどういう事かというと、我ながらわが心が拝めれると言うことではないでしょうか。ね。わが心が拝めれるそこから一切の人が拝め、一切の物が、事柄が本当の意味においての拝めると言うことになる。ね。生長の家じゃないですけれども、何でも拝め拝めと相手になるというそうですけれども、ただ、なるほど、だから生長の家の方達はもう合うたらこうやって、合掌しますもんね。拝み合う。だから形だけが拝み合うたというだけではいけない。まずは自分自身の心が拝めれるようになると自ずとこの手は合うてくるわけ。自分の心が拝めれる。
 そこに一切の事柄も物も勿論人も自ずとこう、合掌する心が生まれてくるわけね。結局真の信心をしなければ、自分の心が拝めれるようにはなりません。ね。四六時中自分の心に合掌出来ておるそれがいうならば生神の境地であろうと思う。心の中に悪い心やら浅ましいものがあっては、中々拝めません。我ながら心は、何時の間に自分がこのような変わり方ができるであろうかと。この道を今も昔も変わらねど、変わり果てたるわが心かなと。ね。あれは、げんじょう坊でしたかね、元、山伏さんだった。そして、当時のいわゆる新興宗教でしょうね。あの親鸞上人がとかれる念仏というものが、大変、発展していったわけ。それをねたんだ、山伏達が親鸞上人の命を狙う。一晩中であったけれどもとうとうその隙がなかった。夢を捨てて、その親鸞上人のお弟子になったと。ね。そして、まあ修行十年かまあ、後々にその師匠である親鸞上人を迎えにでられた。それが丁度親鸞上人を狙った山道であった。そこまで来た時にやはり考えにふけったわけでしょうね。ここで本当に親鸞上人をいわば、殺そうと思うた自分を思うた時にです、変わり果てておる自分の心に感動したわけでしょう。ね。我ながら、自分の変わり果てていく。その、良いほうにですよ、果てていく自分がというものがありがたいというようにです、というように自分の心が拝めれる。
 昨日は研修が終わりましてから、梅山先生がここへ出てきてから、先生僕はどうも、あの附に落ちない、お尋ねしたい事がありますがとこういうわけです。さあどうぞというたら、親先生がよく教えに説かれる、親先生が、神様から頂かれたというお歌の中に、人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力自ずから湧くというお歌がありますが、いわゆる神力に縋る、前の人力と、人力に縋って後に湧いてくる人力とはどのように違うのですかというわけです。人力に見切りをつける。そして、神力に縋る。そっから人力は自ずと湧いてくる。その人力とその人力はどういう風に違うのですかと、皆さんどうでしょうか。そういう疑問は起こらないでしょうか。私はだから私の信心を聞いて下さり、私の信心を見ていきよけば大体、分かると思うけれどもね、というて話した事でした。私は信者時代、一生懸命、勿論おかげを頂きたいの一念です。それでも大坪さんあなたがおかげを頂かんはずがなかて。人が言われん、また、自分もそう思うておった。私がおかげを頂かんはずがないと。もうそれこそ人力の限りをつくしてのまあいうなら御信心であった。やっぱ人力。そしてですね結局人間というものはです、それこそ障子一重がままならぬ人の身であって神様のおかげを頂かなければできる事ではないと分かってきた。
 いわゆる自分という者がいよいよ無力であることが分かってきた。ね。そこからいうなら神様任せの生活が出来るようになり、神様一心、神様一本、神様をいうなら自分を中心にしておった信心から、神様を中心にという神様本位の信心ができるようになった。自分本位の信心から神様本位の信心が出来るようになった。だからテレンパレンしておってよかというのではなくて、それから湧いてくる人力というものはもうこれは限りがないほどのものである。私の日々のここで、御神勤を許されて、ね、こうしてお勤めさせて頂くということは私が人力の限りを尽くしておった時とは全然違う。そうせずにはおれない心。それが、いわゆる自ずから湧く人力だよという風にまあ説明した事でございます。もし神力に縋ったら、神様一本と縋ったら何もせんでよいというのではないのです。ね。そういう本当にその気になったら、湧いてくるもの、自ずから湧くもの。なら私が、朝の三時には起きらずにはおれないものが生まれてくるわけなんです。ね。ご神前に座ったら一時間でも二時間でも、御祈念せずにはおれない心が生まれてくるわけなんです。はあ一時間も御祈念せんならんという時に一時間御祈念するのは人力でしょう。ところが、神力に縋って湧いてくるところの人力というものは限りの無いもの。人力自ずから湧く所のいうならば、人力という信心。私はこのところに入ってくるところに、本当の助かりがあると思うのですよ。ね。だから私は確信する事は私が助かれば皆が助かる。ね。だからそれを私は確信を持っていうのです。私が信じ助かって、そして私が助かる、真実助かるその手立てとか、ね、助かった体験とか、または、神様から頂くそれとこれとを、いうならば併せてここでは皆さんご理解を受けておられるのです。だから私の話を聞いて感じて下さったら、ね、皆が助かると私が言うのです。
 昨日私は佐田先生から聞かせて頂いた話ですけれども、私が大阪に公演に参りました。それをお聞きになったあちらのほうに先生のおじさんがおられます。八十からおじいさんです。ここにも家に二回こられ、参拝されました。もうおかげの泉を熱心な合楽者でありました。先だってから丁度、合楽祭りの前日が告別式でした。その前の日に亡くなられたわけです。で、先生あちらに参っておられました。ところがその、そのおじいさんがお取次を日々しておられるお教会の先生が、その地方の連合会長をしておられる。そしてその日が丁度連合会の運動会にあたっておった。ね。さあ、どうしようかという感じですけれども台風情報が入ってね、いわゆる台風が来るのでその運動会が中止になった。おかげで、告別式を、親先生、その教会の親先生に御願いする事が出来た。おかげで、台風も吹かずにおかげを頂いたというこういうのです。合楽的だねえというて話したことでした。その先生も本当に私は今度参りまして叔母から聞かせて頂いた話なんですけれども、もうとにかく合楽(?)でしたと。もうお神様の前には親先生のお写真が正面にお祭りしてあって、拝んでおりました。毎日、おかげの泉を送って頂くのが楽しみでそのおかげの泉を必ず、一遍テープの中に入れる。読むわけです。読んでそれをテープに入れて、それを暇あるたびに拝聴しておられました。もう亡くなられるまで、もう、本当に合楽の親先生合楽の親先生という内容でなくならせて頂いて、本当に神乍なお国替えであったという事を聞いて、本当に神乍なお国替えであったなあと言うて、聞いた事でした。あれが一日ズレとったらどうだったろう。先生、合楽祭りに間に合わなかった。合楽祭りに間に合わんくらいならよかばってん、あの大役をね、水戸黄門の助さん格さんばやっておった。だから代役じゃ困るわけです。まあいうならばですそういうところまで、神様のご配慮があっておるということなんだ。その日は丁度その連合会のいうなら各教会の運動会があるという日に、丁度告別式の日にあたっておったけれども、おかげで急にそれが中止になって告別式がいわば出来た。実にその、一番初めに驚きました事が、行ったところが親先生のご紋のマークがずっと張ってあった。幕がずっと。はあおかげ頂いておるなあと思うて、終始合楽的おかげの中におかげを頂いておったという話を今朝聞かせて頂いたのですけれどもね、それはどういう事かというと、私がお話に行った時にですそれこそ千何百名の方達が、サンケイホールでしたからね、一杯の人たちに、私が、私の話を信じて聞いてくださるならばね、信心が進む。そして、私の話を聞いてもし感じてくださったならば、いわゆるヒィ-リングです。感じて下さったら必ずおかげになる。後から自分も聞きながら、まあその、まあ、本当に断言的なことをねお話しておるまあ、それは心にあることだから、自ずと出てきたわけでしょうけれどもね、今申します私の話を聞いて下さったら助かるです。感じて下さったら、そこから神様とのいうならばその、感じる心が神様と交流するルートになるのです。
 ね、という風にお話できるのは私が人力を捨てて神力に縋り、そこから湧いてくる人力による合楽の布教であり、お取次であるところに私は皆さんが、助かっていくいうなら元根というものがあると思うのです。ね。私このご理解を頂くのに、皆が本当に頂いたら私は何人も導いたばってんまあ神様になられんと、いうように、これはただ、ね、それを信じて頂く、本当に人一人助ければ一人の神であり、その信者を導けばとだけじゃなくて、真の信心をさせるのがとあるです。真の信心をさせるのが神様のお礼であり、しかもそれが神になるのぞという意味がですね今日のご理解を頂いて下さっとって分かるだろうと思う。自分が神様へのお礼であると同時にそれが神になれれるというほどしの、お導き。人が助かるという人も真の信心になってくださるという事が神になるのである。為にはまず、自分が真の信心によって、自分が真の助かりを頂かなければならない。なら真の助かりとはね、我ながらわが心が拝めれるような心。ね。いつもとは言えなくてもたまには自分の心が拝めれるように変わり果てた自分に気がつかせてもろうたら思わず自分の心を合掌せずにはおれない。そういう心を一切周辺の人でも物でも事柄でも、拝めれる用になると私は思う。そういう助かりの状態を持って、人に話をしていくならば人もまた、助かる事であろう。真の信心になっていく事であろう。初めて神様へのお礼であり、ね、神も、それが、神になるのぞという事にも確かになるだろうと言う風に思います。皆さんどうでしょうか、その、佐田先生のおじさんという、お方が、ね、もうとにかくこうして、朝晩ご理解を頂くのじゃない、もう月に一回のおかげの泉を、自分が読みながらテープに入れられてそれを暇あるたびに、聞いておられたという。ね。そこに合楽の信心によって助かり、助かっておられる証拠というものを合楽に関わりのあるいうならば、ね、いうなら助かりとこう申しましょうか、合楽的助かりとこう申しましょうか、本当に合楽的だったなあと私が申しましたように、合楽的にいうならば助かっていかれた事になり、今後また御霊様の世界に入られても、ね、合楽理念に基づく合楽世界に住まわれる事もできられる。そういう私は助かりがです、ね、真の助かりだと思いますし、それが真の助かりの人が私の話を聞いて沢山出来ていかれるという事は沢山の人のための私は生神という事になるのじゃないでしょうか。
 どうぞお互いがね、真の信心をさせて頂いてそしてその真の信心を人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼であり、それが神になるのぞというところを今日、新しい私は解釈で頂いて、こう私自身が合点がいったような気がします。
                                     どうぞ